燕市

燕市の由来

伝説

今から440年ほど昔、そのころ中ノ口川はもっと川幅が広く、5月、6月頃の雨季には、濁流が渦を巻いていました。この濁流にゆられながら上流から流れてくる小さな祠(ほこら)があり、どうしたわけかその祠が宮の浦(今の宮町)まできたときその場所からいくら流そうとしても流れませんでした。人々が不思議に思ったのはそればかりでなく、祠の屋根にもその附近にもたくさんの燕がその祠を守るようにむらがっていたのです。

祠は村びとによって拾いあげられこの地の守り神としてまつられました。そしてこの不思議な燕の群れから燕の村と呼ばれるようになったと伝えられています。

学説

およそ510年前に水原憲家という人(水原氏は鎌倉時代から白河荘の地頭をつとめてきた家柄)がその子の景家に出した手紙に、「おまえに津波目の土地を与える」ということが書かれています。このことから燕は昔、津波目と書いていたことがわかります。燕市には小古津新や関崎という津や関のつくところがあり、津や関は港という意味があります。また、目は中心という意味があり、このことから津波目は信濃川をとおる舟のつくところで、近くの村々から出る米が集まって、舟に積まれていたことが考えられます。津波目がいつごろどうして燕という字に変わったかはまだはっきりしていません。

(燕市HPより)

 

 

平成18年3月20日合併後の新町名について記述していく

殿島

秋葉町

 

水道町

 

白山町

 

新生町

花園町

仲町
宮町
穀町
新町
中央通

幸町
本町
寿町

 

 

吉田の由来

伝説

その昔、応神天皇の皇子(みこ)蒲原吉田彦が住まわれたところから「よしだ」という地名が生まれ、平安時代の末期、源氏が東国に活躍した時代には、数戸の小集落をなしていたとの言い伝えがありますが、史実に基づいたものではありません。また、吉田地域一帯が、葦(よし)の原野であったところから、葦の原、葦の田、吉(葦)田となったという言い伝えもあります。

学説

吉田の地名は古く、今から約950年前の康平3年(西暦1060年)の「越後国地図」には、弥彦山の東麓に吉田の文字が載っています。また、足利時代の応永13年(西暦1406年)には、越後守護上杉常越(房方)が足利氏の菩提寺(山城国等持院)に吉田の保を寄進したという寄進状が残っています。

(燕市HPより)

吉田日之出町

吉田春日町

吉田東栄町

吉田栄町

吉田水道町

吉田浜首町

吉田弥生町
吉田神明町

吉田幸町

吉田寿町

吉田堤町
吉田松岡町

吉田新町
吉田旭町
吉田学校町
吉田東町
吉田下町
吉田中町
吉田大保町

吉田上町
吉田新田町
吉田大保町(一部)

吉田曙町
吉田神田町

吉田若生町
吉田文京町

 

分水の由来

1954年11月3日、地蔵堂町、島上村、国上村の1町2村を合併して「分水町」が誕生しました。新町名については委員をあげて審議され、このとき出された町名には「美堂里町」「分水町」「上地町」「神地町」などが挙げられましたが、多くの人々の願いが叶い、延べ1千万人の人力と13年の歳月を要して建設された「越後平野の守り神・大河津分水」の偉業を讃え、また後世に語り継いでいくため「分水町」と決定しました。

日本一の大河・信濃川は、広大な越後平野を産み出し、豊かな実りをもたらした反面、度重なる洪水によって多くの尊い人命、家屋、田畑を流し去り、流域に壊滅的な被害を与えてきました。大河津分水路は、幾多の水害に悩まされ続けてきた沿川住民の永年の悲願・請願を受け、信濃川の放水路として明治時代から大正時代にかけて延べ1千万人の人力と13年の歳月を要して建設されたものです。その工事は当時「東洋のパナマ運河」とも言われた国の威信をかけた大事業でした。多大な困難と犠牲の末に1922年ようやく完成した大河津分水は、今日の高速交通網の整備や産業の発展をもたらし、越後平野を全国有数の穀倉地帯に変えました。そして現在も黙々と信濃川の洪水を日本海に流し続け、越後平野の守り神となっています。

(燕市HPより)

 

分水新町

地蔵堂本町
分水桜町

分水桜町

上諏訪
中諏訪

下諏訪

分水栄町
分水大武

分水旭町
分水学校町

分水東学校町
笹曲

分水向山

新興野
町畑

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